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長原孝太郎
ながはらこうたろう

長原孝太郎

生誕 1864(元治元年)
死没 1930(昭和5年)

孝太郎は、元治元年(1864)2月16日、竹中家家臣長原武の子として生まれた。号は止水。
5歳の時父を亡くした孝太郎は、明治5年(1872)山田芸叟に就き漢学と画を学び、その後家庭の事情により、母の実家である大垣藩士宮田良右衛門方へ居を移し、同9年、大垣第3小学校を卒業した。このころ、岩手出身の神田孝平は兵庫県令をしており、孝平の父が武の門人であった関係から孝太郎を引きとり、神戸花隈英学校に入学させた。この年の9月、孝平は元老院議官に任ぜられ東京へ戻ったので、孝太郎もそれに従い東京へ出て、神田共立学校に入学した。同13年、母の希望もあって、医学を学ぶべく、東京大学予備門に入学したが、まもなく画家を志し、15年(1882)同校を退学、翌16年、小山正太郎に就き洋画修業し、傍ら孝平の子神田乃武に英学を学んだ。同20年(1887)、神田孝平に随伴して奈良地方に赴き古器物を写した。翌21年、九鬼隆一の大和紀伊地方宝物取調べに随伴して10月帰京。翌22年、理科大学雇となり動物の標本を写生し、傍ら東京神田共立学舎にて英語教師を勤め、翌23年、理科大学技手となる。この前後、貝塚土器などの写生を通じ人類学会との交渉をもつ。同26年(1893)、理科大学助手。このころ、原田直次郎の指導を受く。同28年(1895)、黒田清輝につき洋画の指導をうけ、翌29年、黒田清輝・久米桂一郎の白馬会に参加し出品を続けた。

農商務省・帝国大学の嘱託となり、野生鳥類を写生し保護鳥図譜が完成する。翌30年、第2回水産博覧会水族室設計嘱託、翌31年、東京美術学校助教授、翌32年、理科大学本官を免ぜられ、大正5年(1916)、東京美術学校教授、昭和5年(1930)12月1日没、行年66歳。

孝太郎は、明治20年(1887)、十一会展覧会に「雷門」を出品して世に認められ、同40年、東京博覧会に灯火の効果を取り扱った「停車場の夜」を出し3等賞を得、同41年、文展に「平和」を出品し入選して以来、文展・帝展を通じ、彼が没するまで連続入選し、とりわけ第8回文展「残雪」3等賞、第9回文展「晩春」2等賞を受けた。大正5年(1916)には永久無鑑査、同7年、帝展審査員となった。同13年、美術展審査のため朝鮮へ出張している。

孝太郎は画才を多方面に発揮し、与謝野鉄幹・坪内逍遙・伊良子清白・森鴎外・島崎藤村などの諸士と交わり、本の装幀・挿絵などを描き「二六新報」の表題図案などを描いた。孝太郎はフランスの漫画家ビゴーとも親交し、自らは明治26・27・28年に漫画雑誌「とばゑ」を執筆刊行し、ユーモラスな庶民風俗描写など、社会風刺的な画もよくし、また、古物図写生の第一人者でもあった。

「陸海軍大演習御統監の図」が明治神宮聖徳絵画記念館に奉納されているが、この図制作中に孝太郎が没したので子息坦が継続完成した。

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