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大野是什坊
おおのぜじゅうぼう

大野是什坊

生誕 享保12年(1727)
死没 寛政5年(1793)

是什坊は岩手旗本竹中家家臣、大野瀬左衛門の子として岩手に生まれた。本名は親芳、通称は瀬兵衛と称した。元文3年(1738)近習に呼び出され、宝暦2年(1752)公用側用人を申しつけられ、江戸勤めとなった。このころから俳諧を学び頭角をあらわした。

 安永9年(1780)獅子門以哉派五世方県郡黒野の安田忠兵衛以哉坊二狂より道統を受け、美濃派六世を継承した。天明8年(1788)致仕。晩年道統七世 を江戸下谷の住人野村白寿坊信我に譲り、寛政5年(1793)是什坊と号し、傘狂、朝暮園、老森庵、花中人などとも称した。

是什坊の代表的な門人に長州の女流俳人田上菊舎尼、また是什坊を補佐した人に本巣郡政田村の高木百茶坊がいる。

是什坊は官務多忙のため、長期間留守にできなかったので、天明2年(1782)百茶坊に九州行脚させ、俳諧を広めさせた。

天明6年(1786)には百茶坊と菊舎尼に九州行脚させている。これは同門の融和と勢力の拡大をはからせ、芭蕉百回忌法要の勧募が目的であった。これによって九州地方の獅子門は、再和派より以哉派との関係を深めていった。

寛政2年(1790)3月10日、多くの門弟を集めて芭蕉百回忌法要を洛東双林寺で勤修した。

   道の匂ひのいちしるき春              百茶坊

   百とせの手向けや桃は幾千歳     尼菊舎

   散るや花花の都のはな供養        表佐周路

   百千鳥おとら須啼や供養の日     表佐東朔

   氷き日や海山越して仰ぐ道          垂井兎白

   おこそかな法会や花の和らきも    岩手可夕「世の花」

寛政5年(1793)12月17日に没した。行年67歳、法号浄台信士 禅幢寺に葬る。遺稿に「世の花」3冊 「朝暮園句集」2巻などがある。

文化6年(1809)卯月17日、国井青敷が尽力して垂井本龍寺において、是什坊の17回忌法要を営んだ。手向けの句も多く越前、信濃、尾張、伊勢、紀州、豊前、豊後などより寄せられている。

各地に次の句碑がある。

   蜂の巣や知らぬきのふをあふながる   明治30年四月垂井本龍寺

   初雪やそれさへたらぬ貯ひ酒   平成4年12月岩手菁莪記念館

   くもる程によい空奪う桜かな   京都永観堂・大分県吉富町天仲寺

   横乗りの旅人もあり不破の月   平成6年12月中山道ミニ博物館

   鶯や雪も舞はねばならぬ声   岐阜北野獅子庵

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