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櫟原踅斎
いちはらせっさい

櫟原踅斎

生誕 1723(享保8年)
死没 1800(寛政12年)

儒学者。踅斎は幼名を信八、名は篤好、通称は主佐・修助といい、号を踅斎、俳名を君里と称した。父は3代目櫟原七兵衛光州、母は金岩弥市右衛門教入の3女である。

代々本陣をつとめ酒造業を営んだ。本姓は栗田であったが、元祖七兵衛は大和国平群郡櫟原村塚内の生まれであったので、地名をとって氏とした。
踅斎は幼より読書を好み人情に厚く、成人して、4代目の家督を継いだが、30歳のころ、家督を子の文吾に譲り、自身は京に出て久米訂斎の門に入り、刻苦勉学し数年にして門弟中第1位となり、郷里の垂井へ帰り自ら勉学するとともに子弟を教育した。宝暦12年(1762)、踅斎が旧師久米訂斎を訪ねた帰り、訂斎は次のような惜別の辞を踅斎に与えている。

 すむ里は雲のあなたにへたつともかよふ心のなとさハるらん

明和8年(1771)師訂斎より孔子の聖像を譲りうけ、明倫堂を建立し子弟を教育した。この画像は、将軍綱吉が中国から求めた3幅の1つで、尚斎・訂斎と受け継がれたものである。

その後、明倫堂を垂井の清水のほとりに改築し泗水庵と称し、ここに孔子の像を中心に顔子、曽子、子思、孟子、朱子の像を祭り、三宅尚斎著の白雀録・狼疐録など儒学の書を集めた。
泗水庵の落成を聞いた師の訂斎は、儒書「小学」を届けている。
踅斎は泗水庵学則五カ条を作り、これを壁間に掲げ、自らはこの学堂で起臥し学則を厳守し、聖賢の書を講義した。「学堂は徳義を修め行実を習ふの地なり」と教育の根本理念を教えている。
踅斎は風雅の道をたしなみ、安永4年(1775)泗水庵の南に白根塚をつくり、芭蕉の「葱白く洗ひ上げたる寒さかな」の句碑を建立し、かたわらに五峰庵を構えて俳友を集め雅会を催した。
寛政4年(1792)の試筆に

  影旧ると一さし舞はむ古稀の春      君里

踅斎は子弟に崎門学派の儒学を教えること30余年に及び、寛政12年(1800)1月2日78歳で没し垂井専精寺に葬られた。
踅斎没後、泗水庵は同門の合田恒斎が継いだが文化12年(1815)12月9日夜、西町の大火により半焼し再建が不可能となり恒斎は江州坂田郡樋口村へ帰り、ここに50年間の儒学の殿堂泗水庵は廃絶した。
恒斎の門人に飯沼慾斎がいる。

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