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神田孝平
かんだたかひら

神田孝平

生誕 1830(天保元年)
死没 1898(明治31年)

孝平は、天保元年(1830)9月15日、岩手旗本竹中家家臣神田孟明の側室の子として、岩手に生まれた。名は孟恪、通称は孝平と称した。号を淡崖、有不爲楼、唐通などといった。3歳の時、父が没したため、もっぱら叔父の神田柳渓の薫陶をうけ、また嫡母露木牧子に育てられた。孝平は幼より学を好み、常に短袴矮履をはいて村の儒者国井喜忠太の塾に通い、習字素読をうけ、時刻を違えたことがなかったという。

弘化3年(1846)17歳の時、京都へ出て伊奈遠江守に仕え、翌年牧百峯につき漢学を学ぶ。嘉永2年(1849)、伊奈遠江守が勘定奉行に転じたので、これに従って江戸へ下る。翌年塩谷宕陰、安積艮斎の門に入り漢学を学び、同4年の時、永井介堂に従い甲府に遊学中、叔父神田柳渓の訃報に接し直ちに岩手へ帰った。同6年再び江戸へ出て、松崎慊堂に漢籍を学んだ。折から米国のペリーが浦賀に来航し、諸国が騒然となった。孝平は旗本竹中家の命により、岩手へ呼び戻され、中小姓格に任ぜられたが、事態が平穏に帰したのでその任を辞した。ペリー来航の衝撃をうけた孝平は、三たび江戸に遊学し、修学の方針を転じて杉田成卿、伊東玄朴の門に入り、ついで安政2年(1855)、手塚律蔵の「又新塾」に入り蘭学を修めた。このころ、師に代って桂小五郎に蘭書を教授したという。安政4年(1857)の或る日、高島秋帆を訪ねて蘭学に志した動機を聞き、更に洋学に力をそそぐに至った。また福沢諭吉と共に長崎に遊学し、和蘭文典書に精通した長崎人某に就き深く文典を研究し、多くを得たという。

明治政府となり、開成所頭取を経て京都の新政府の一等訳官となり、ついで徴士、議事体制取調となり、江戸へ帰り学校取調兼務となる。公議所副議長、集議院下局次官、権大内史を経て明治4年(1871)11月、兵庫県令に任ぜられ、同8年、地方官会議幹事長をつとめ、同9年、元老院議官に栄転した。ついで文部少輔、再び元老院議官に任ぜられ、同23年、帝国議会が開設されると、貴族院議員に勅選された。翌24年、病気のため議員を辞退した。同31年7月5日逝去。行年69歳、勅使を差遣され、素絹2匹・祭祀料1000円を下賜された。谷中天王寺に葬る。神性院淡崖孝平大居士と諡す。功により特旨をもって華族に列し、男爵を授けられた。

孝平は一代の識見家であった。慶応元年(1865)、市川文吉のロシア留学の壮行会で、蘭文で日露国交の重要性を壮行文に認め、幕末には早くも商工立国論を唱え、文久元年(1861)には『和蘭美政録』の訳書がある。

ついで明治元年(1868)に新政府から福沢諭吉、柳川春三、神田孝平の3人にお召しがあったが、孝平のみ新政府に出仕した。以後開明的官僚として敏腕をふるった。孝平は、明治2年(1869)5月、制度取調御用掛のとき「税法改革の議」翌3年6月を、集議院判官のとき「田租改革建議」を出し、地租改正を提言し、明治6年7月、地租改正の公布をみるに至った。

また、兵庫県令在職中、全国3県令の1人として令名高く、兵庫県下の外国人はその功績を称え、孝平に感謝状を贈った。このころ、明六社に加盟し、明六雑誌に啓蒙的な論説を発表した。

また、明治10年(1877)には初代数学会社社長に就任し、その中心的人物となり、同15年6月より同18年6月までの3年間、東京学士会院副会長をつとめ、同20年7月には推されて初代人類学会長に就任し、孝平の名声と知己により会員数も増加し、人類学、史学関係に興味を抱く人が増えたという。

孝平の学聞は文学・経済・数学・政治・法律・天文学など多方面にわたり、娩年には考古学にも興味をいだき、多くの出土品を収集している。

孝平は、常に郷土の人材育成に心をそそぎ、菁莪義校(現岩手小学校)設立に際し、5000円および書籍を寄付している。

なお、世嗣神田乃武は、英文学者で貴族院議員となり、大正10年(1921)12月、ワンントンで開かれた軍縮会議には徳川全権の随員として出席した。

孝平の主な著書および訳本には次ようなものがある。
経済小学1冊  数学教授本2冊  和蘭政典1冊  性法略1冊  星学図説3冊  和蘭邑法2冊  和蘭州法1冊  和蘭司法職制法1冊  世事要言1冊  経世餘論1冊  日本太古石器考1冊  英文石器図説1冊  

 

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