垂井町文化財マップは、垂井町内に所在する国・県・町指定文化財、国登録文化財を紹介するものです。 左の検索ナビゲーションより、「種別」「キーワード」にて検索いただけます。 また、タブ切替により「マップ一覧」「リスト一覧」を切り替えてご覧いただくことができます。 当一覧を利用し、垂井町の文化財に多くの方が触れていただけたらと思います。
宝筐印塔3基のうち1基には慶長16年(1611)、五輪塔には天正9年(1581)の紀年銘があります。宝筐印塔のひとつは岩手城主・岩手弾正の供養塔だと伝...
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曹洞宗寺院で、寺伝によると明応3年(1494)に岩手弾正忠典長の請願により、開基されたといいます。以後、岩手氏の菩提寺ではありましたが、岩手氏滅亡後、...
油屋を営んでいた宇吉家から小林家が明治14年(1881)に譲り受け、昭和初期まで「亀屋」の屋号で旅籠を営んできた建物です。幕末頃の建築で、二階には両側...
元は南宮大社内の南神宮寺にありましたが、明治の神仏分離時に現在地に移築されました。妻飾りや蟇股の彫刻に江戸時代初期の技法がみられます。
中山道柏原本陣の一部を明治22年(1889)に移築したものです。上段の和室は明治天皇が巡幸の際に休息所として使用され、当時のままで保存されています。
元は宝珠院観音堂といい、南宮山頂付近の高山社付近にありました。「木曽路名所絵図」にも描かれています。明治の神仏分離時に現在地に移築されました。
天文年間(1532-55)、蓮如の曾孫・證榮が平尾眞徳寺を創建、のち願證寺に改号されました。現本堂は宝暦年間(1751-63)に建立されたものです。
寛永19年(1642)、徳川家光の発願により再建された社殿です。再建時の造営文書が現存しており、当時の造営の経緯や建築技術などが窺える貴重な資料となっ...
三重塔と同じく、明治の神仏分離時に南神宮寺から移築されたものです。弓形に反った梁や、くりぬいた彫刻に当時の優れた技法が窺えます。
垂井宿の中山道と南宮大社から府中へ向かう南北道路が交差する北東角に位置しています。近世垂井宿の風情を醸し出している建物です。
後光厳天皇が訪れたという民安寺ですが、現存していません。この石燈篭には「民安寺」の刻字があり、民安寺がこの付近にあったと推定されています。
「康暦元年」(1379)の紀年銘があり、垂井町で最も古い宝筐印塔と考えられています。宝筐印塔とは供養塔のことで、密教の信仰により多数造立されました。
鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の争いで敗れた足利持氏の子、春王・安王は京都へ送られる途中、垂井で処刑されました。これを、悲しんだ時宗の本山遊行寺住職が...
十一面観音は最澄作、不動明王は空海の甥・智證大師作と伝えられています。十一面観音は秘仏とされ、30年に一度開帳されます。
ケヤキの一木造りで、平安時代中頃の作とおもわれます。指で輪をつくる説法印の結び方が左右の手で異なるという、大変珍しい説法印を結んでいます。
親鸞聖人の生涯を22場面にわたり木像彫刻で表現したものです。親鸞の一代記は、布教を目的として絵画での「絵伝」がそのほとんどで、木彫刻のものは全国的にみ...
南宮大社の例大祭の様子を描いた絵巻物です。神輿渡御式や蛇山、還幸の舞などが描かれ、江戸時代当時の祭典の様子がよくわかる資料です。
初代三条宗近の刀は平安時代の県下随一の名刀です。
漆本小礼製の本体に、鉄小礼と革小礼をまぜています。金工・染色など製作当初の特徴をよく保っています。斎藤道三が使用したものと伝えられています。
次の7口が指定されています。(1)太刀 銘 元真 長さ74.5cm。刀工は、備前長船派鎌倉末期元重の弟。備前伝の腰反りで姿雄大。 (2)太刀 銘 ...
鉾は大和千手院派の流れを汲む刀工によるのもです。
源頼朝の死後、妻の北条政子が頼朝の菩堤を弔うために寄進したと伝えられるものです。その後、守護土岐氏が応永5年(1398)に再度鋳造しています。その後、...
初代康光は備前国の人で、応永年間(1394~1428)までの作刀があります。
例大祭の神輿渡御式で使われていた神輿で、寛永19年に製作されたものです。本社には、祭神金山彦命の象徴である擬宝珠が飾られています。
平安時代中期以前のものといわれ、美濃国最古の梵鐘とされています。垂井の小清水から出たという伝承や、宮処寺のものとも伝えられています。
半兵衛の菩提寺である禅幢寺に伝わる出陣図です。半兵衛の子・重門が林羅山と親交があった縁で、羅山の孫大学頭藤原信篤がこの像の讃を書いたといわれています。
平塚為広の存在する唯一の肖像画です。為広は、豊臣秀吉の家臣として武功をあげ、垂井城主として1万2千石を領有しました。関ヶ原合戦では西軍として大谷吉継と...
毎年5月の祭で鳳凰山・紫雲閣・攀鱗閣の3輌の曳車山が垂井地内を曳き廻され、曳車山の舞台の上では子供歌舞伎が演じられます。垂井祭の歴史は古く、北朝の後光...
曳車山の巡行中や子供歌舞伎を演じる間に演奏されるもので、間尺笛・篠笛・大太鼓・〆太鼓・鉦・三味線の楽器を用い、通常は太鼓と〆太鼓1人・鉦1人、笛3~5...
例大祭のとき行われる御田植神事、蛇山神事、3種の還幸舞の計5つが指定されています。祭に伴う奉納芸能として、非常に古風な舞を伝えています。
干ばつの際、雨乞いで太鼓を打ち鳴らしたのが起源の祭りです。大きいものでは1.5m、重さ50kgを越す大太鼓を腰にくくりつけて音頭にあわせて踊ります。
垂井曳車山祭子供歌舞伎は、垂井曳車山祭の際、鳳凰山(東町)、紫雲閣(中町)、攀鱗閣(西町)の三基の曳車山が八重垣神社境内に揃い、三基それぞれの舞台で奉...
鎌倉公方足利持氏の遺児・春王・安王は京都へ護送中、垂井の金蓮寺で処刑されました。墓には3基の宝筺印塔があり、1基は乳母のものとされています。
垂井宿問屋・奥山文左衛門が宝永6年(1709)に建てた、中山道と美濃路の追分道標です。「是より右東海道大垣みち 左木曽街道たにぐみみち」と書かれていま...
永貞は垂井町表佐に生まれた江戸時代末期の刀匠です。初め大垣赤坂で修行し、その後松江・京都・江戸青山で鍛刀、独自の鍛刀法を編み出しました。
文明8年(1476)3月6日から3日間、連歌の会が催されたため、千句の里と呼ばれます。応仁の乱の戦火を避け美濃入りしていた専順ら12人で催されました。
惟益は南宮大社の代官大夫職の不破家に生まれた、江戸時代初期の神道学者です。いわゆる「不破神道」の学説を大成し、「南宮神記」の著書も残しています。
直径60mの帆立貝式円墳です。5世紀前半に築造されたとおもわれます。鉄鏃や銅鏃、直刀、香炉状のものが出土したと伝えられています。
昭和42・47年に発掘調査が行われ、瓦積み基壇をもつ塔跡が確認されました。不破郡大領の宮勝木実の氏寺や天平12年(740)に聖武天皇が訪れた「宮処寺」...
勝神社本殿北に所在する全長30mの前方後円墳です。後円の一部が残っていますが、大半は滅失しています。武内宿祢の墓として信仰を集めています。
南宮山麓に位置し、6基の古墳で構成される栗原古墳群の内の2基です。1号墳は円墳で別称黄金墳と呼ばれ、2号墳は約44mの前方後円墳です。
奈良時代、美濃国を統括していた役所の遺跡です。平成3年度からの発掘調査で、政庁など中心施設の配置や建て替えの変遷過程が明らかになっています。
直径40mの円墳で、幅7~8mの周濠の一部が残っています。円墳としては大型で、古墳時代後期の首長墓とみられます。須恵器の三足壺が出土しています。武内宿...
美濃国分寺跡の南西約1kmにあり、国分寺と同じ軒瓦が出土しています。平成16年から発掘調査が行われ、尼寺建物の基壇の一部が見つかりました。
平成18年(2006)に南宮大社御旅所付近が美濃国府跡として国史跡に指定されたことにより、それ以前に町指定となっていた美濃国府跡は、これまで国府所在地...
南宮山頂付近に如法経と刻まれた石柱があり、一帯に石が敷き詰められています。付近の地下から出土した経甕が、南宮大社に納められています。
豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛の子・重門が構えた陣屋です。屋敷の大半は消失していますが、櫓門や門扉、濠、石垣は幾度かの修復を経て現存しています。
美濃国府跡の北西約2,2mに位置する窯跡で、国府や国分寺に供給する瓦を焼いたとされています。昭和22年の道路拡幅工事の際、大量の瓦が出土しました。
垂井宿本陣に生まれた檪原踅斎が創設した私塾です。踅斎は京都の久米訂斎のもとで儒学を修学した後泗水庵で子弟の教育に励みました。
周囲約200m、高さ約40mの瓢形の山で、別名葬送山とも呼ばれます。『古事紀』などにみえる天稚彦伝説の喪山ともいわれ、円墳か前方後円墳ではないかと推定...
清澄な水が湧きでており、古くから人々に親しまれてきた泉です。11世紀に美濃国司・藤原隆経が泉を詠んだ和歌が伝わっています。
県内最古級の白鳳寺院です。天平12年(740)に不破頓宮や曳常泉とともに聖武天皇が訪れた寺とされています。付近から大量の瓦が出土しています。
全長85mの前方後円墳で、濃尾平野を一望できる山頂部に立地しています。明治初年頃に出土した15点の石製品は現在東京国立博物館に所蔵されています。
長屋氏は鎌倉中期に相模から垂井に移り住んだ豪族で、その屋敷跡は天明8年(1788)には13㏊ありました。後光厳天皇が垂井行在時、この屋敷を訪れています...
岡田将監善政は江戸時代初期の美濃国の大官で、南宮大社の寛永の再建時の造営奉行を務めました。綾戸村と隣村との境界争いの解決にも尽力しました。
一里塚は旅程の目安や旅人の休憩のため主要街道の1里(約4㎞)ごとに造られました。これは中山道沿いに建つ一里塚で、南側の1基が現存しています。
本龍寺住職・規外と交友のあった芭蕉が、元禄4年(1691)に同寺を訪れ「作り木の庭いさめる時雨かな」と詠んだことから建立された塚です。
栗原山の中腹及び山麓に存在したと伝えられる寺院群です。現在は山中の石仏・墓石が山腹斜面に集められています。
奈良時代、美濃国の官設抄紙場があり、美濃紙発祥の地とされています。平安時代には紙漉きの技術者宇保良信がこの紙屋に勤めていた記録が残っています。
標高401mの山頂に所在、東西約150m、南北約300mを測り、その規模は西美濃最大級です。竹中半兵衛の時代までは、居館を麓の西福村に置き、菩提山城を...
黒田官兵衛の謀反を疑った織田信長が、息子の松寿丸の殺害を竹中半兵衛に命じた際、無実を信じる半兵衛が、家臣の邸宅(現五明稲荷神社)に松寿丸を匿い、救った...
町指定史跡長屋氏屋敷跡にあるツバキ。樹高約15メートル、樹齢500~600年。
北海道以外の全国に生息していますが、数が減少しています。町内には10箇所程の生息地があり、6月中旬から7月にかけて泡状の卵を産卵します。
樹高30m、樹齢800年といわれる巨木です。ヤマトタケルが伊吹山の荒神退治の際、杖として使ったスギの枝を地面に突き刺したものだと伝わっています。
樹高30m、目通り6.6mの大スギです。関ケ原合戦のとき、社殿は兵火にかかりましたが、ご神体はこのスギの幹に安置したため安泰だったと伝えられています。
やせた土地でもよく育ちますが、暖地性のため、岐阜県内の自生地は垂井町周辺が北限といわれています。秋葉神社境内のものは樹高13.5m、目通り1.4mです...
美濃路は中山道と東海道を結ぶ脇街道です。かつては道の両脇に松が植えられていましたが、大半は消滅し、ここが美濃に残る唯一の松並木です。
栗原山の中腹にある樹高11m、樹齢約400年の巨木です。根元で2幹に分かれますが、再び癒着して連理の状態になります。縁結びの木と伝えられています。
絶滅危惧種に指定されており、現在は垂井町と徳島県祖谷地方で確認できるのみです。7月頃、紫色の小さな花が鈴を連ねるように咲きます。
菩提樹の下でお釈迦様が悟りを開いたとされ、果実は数珠玉としても用いられるため、寺院に多く植栽されています。現在の菩提樹は3代目のものです。
体長4~6cmの淡水魚で、岐阜・滋賀県にのみ生息します。水温20℃を超えると生息できないため、清浄な冷水地が必要です。