垂井町文化財マップは、垂井町内に所在する国・県・町指定文化財、国登録文化財を紹介するものです。 左の検索ナビゲーションより、「種別」「キーワード」にて検索いただけます。 また、タブ切替により「マップ一覧」「リスト一覧」を切り替えてご覧いただくことができます。 当一覧を利用し、垂井町の文化財に多くの方が触れていただけたらと思います。
後光厳天皇が訪れたという民安寺ですが、現存していません。この石燈篭には「民安寺」の刻字があり、民安寺がこの付近にあったと推定されています。
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禅幢寺は竹中家の菩提寺となっており、本堂は半兵衛重治の孫重常が寛文3年(1663)に建立したものです。
元は南宮大社内の南神宮寺にありましたが、明治の神仏分離時に現在地に移築されました。妻飾りや蟇股の彫刻に江戸時代初期の技法がみられます。
宝筐印塔3基のうち1基には慶長16年(1611)、五輪塔には天正9年(1581)の紀年銘があります。宝筐印塔のひとつは岩手城主・岩手弾正の供養塔だと伝...
三重塔と同じく、明治の神仏分離時に南神宮寺から移築されたものです。弓形に反った梁や、くりぬいた彫刻に当時の優れた技法が窺えます。
寛永19年(1642)、徳川家光の発願により再建された社殿です。再建時の造営文書が現存しており、当時の造営の経緯や建築技術などが窺える貴重な資料となっ...
「康歴元年」(1379)の紀年銘があり、垂井町で最も古い宝筐印塔と考えられています。宝筐印塔とは供養塔のことで、密教の信仰により多数造立されました。
天文年間(1532-55)、蓮如の曾孫・證榮が平尾眞徳寺を創建、のち願證寺に改号されました。現本堂は宝暦年間(1751-63)に建立されたものです。
十一面観音は最澄作、不動明王は空海の甥・智證大師作と伝えられています。十一面観音は秘仏とされ、30年に一度開帳されます。
ケヤキの一木造りで、平安時代中頃の作とおもわれます。指で輪をつくる説法印の結び方が左右の手で異なるという、大変珍しい説法印を結んでいます。
江戸時代初期の伊富岐神社の古絵図。当時の境内外の諸建造物・地名・屋敷跡などが詳しく記載されている。
次の7口が指定されている。(1)太刀 銘 元真 長さ74.5cm。刀工は、備前長船派鎌倉末期元重の弟。備前伝の腰反りで姿雄大。 (2)太刀 銘 吉...
平安時代中期以前のものといわれ、美濃国最古の梵鐘とされています。垂井の小清水から出たという伝承や、宮処寺のものとも伝えられています。
初代三条宗近の刀は平安時代の県下随一の名刀です。
大正15年、神社本殿再建の際、出土したものです。梵字の書かれたわらけは全国に数例しか現存せず、大変珍しいものです。
鉾は大和千手院派の流れを汲む刀工によるのもです。
漆本小礼製の本体に、鉄小礼と革小礼をまぜています。金工・染色など製作当初の特徴をよく保っています。斎藤道三が使用したものと伝えられています。
初代康光は備前国の人で、応永年間(1394~1428)までの作刀があります。
菩提寺は伊福氏が開基した寺です。永正4年(1507)に、宮田郷(現本巣市宮田)に南宮神社領があったとみられる銘が刻まれています。
半兵衛の菩提寺である禅幢寺に伝わる画です。半兵衛の子・重門が林羅山と親交があった縁で、大学頭藤原信篤がこの像の讃を書いたといわれています。
元禄7年(1694)京都で新調された曼荼羅図です。中央に大日如来を配し、409尊の仏、菩薩、明王、天部の諸尊が配置されています。
正保4年(1647)に岡田将監善政によって寄進されたもの。
岩崎神社は、岩手や府中、栗原などを領していた岩手弾正によって造営されました。創建時の文正元年(1466)の棟札など6点が指定されています。
伊富岐神社は古代の伊福部氏の祖神を祀る神社である。この神社は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の戦火にかかりその後復興した。この棟札には、遷宮の際の吉祥...
毎年5月の祭で3輌の車山が垂井地内を曳き回されます。車山の舞台の上では男児による子供歌舞伎が演じられます。鳳凰山、紫雲閣、攀鱗閣があります。
垂井曳車山祭に子供歌舞伎が演じられるようになったのは、東町の祭礼帳によると明和9年(1772)の記録に歌舞伎の記録があることから、それ以前と考えられる...
お囃子は、曳車山の巡行中や子供歌舞伎を演じる間にならすもので、間尺笛・篠笛・大太鼓・〆太鼓・鉦・三味線の楽器を用い、通常は太鼓と〆太鼓1人・鉦1人。笛...
全長85mの前方後円墳で、濃尾平野を一望できる山頂部に立地しています。明治初年頃に出土した15点の石製品は現在東京国立博物館に所蔵されています。
豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛の子・重門が構えた陣屋です。屋敷の大半は消失していますが、櫓門や門扉、濠、石垣は幾度かの修復を経て現存しています。
直径40mの円墳で、幅7~8mの周濠の一部が残っています。円墳としては大型で、古墳時代後期の首長墓とみられます。須恵器の三足壺が出土しています。武内宿...
将監は江戸時代初期の美濃国の代官で、南宮大社の寛永の再建時の造営奉行を務めました。綾戸村と隣村との境界争いの解決にも尽力しました。
標高401mの山頂に所在、東西約150m、南北約300mを測り、その規模は西美濃最大級です。竹中半兵衛の父・重元が永禄2年(1559)築城しました。
美濃国府跡の北西約2,2mに位置する窯跡で、国府や官代廃寺に供給する瓦を焼いたとされています。昭和22年の道路拡幅工事の際、大量の瓦が出土しました。
奈良時代~鎌倉初期、100以上の僧坊が栗原山一帯に営まれていましたが兵火にかかり焼失しました。現在は山中の石仏・墓石が山腹斜面に集められています。
奈良時代、美濃国を統括していた役所の遺跡です。平成3年度からの発掘調査で、政庁など中心施設の配置や建て替えの変遷過程が明らかになっています。
伝承地となっている安立寺はかつて府中寺と称し、近隣の有力者が国府の正庁跡を保存するために寺としたという言い伝えがあり、境内からは布目瓦が出土しています...
一里塚は旅程の目安や旅人の休憩のため主要街道の1里(約4㎞)ごとに造られました。これは中山道沿いに建つ一里塚で、南側の1基が現存しています。
文明8年(1476)3月6日から3日間、連歌の会が催されたため、千句の里と呼ばれます。応仁の乱の戦火を避け美濃入りしていた専順ら12人で催されました。
南宮山麓に位置し、6基の古墳で構成される栗原古墳群の内の2基です。1号墳は円墳で別称黄金墳と呼ばれ、2号墳は約44mの前方後円墳です。
永貞は垂井町表佐に生まれた江戸時代末期の刀匠です。初め大垣赤坂で修行し、その後松江・京都・江戸青山で鍛刀、独自の鍛刀法を編み出しました。
直径60mの帆立貝式円墳です。5世紀前半に築造されたとおもわれます。鉄鏃や銅鏃、直刀、香炉状のものが出土したと伝えられています。
美濃国分寺跡の南西約1kmにあり、国分寺と同じ軒瓦が出土しています。平成16年から発掘調査が行われ、尼寺建物の基壇の一部が見つかりました。
美濃路は中山道と東海道を結ぶ脇街道です。かつては道の両脇に松が植えられていましたが、大半は消滅し、ここが美濃に残る唯一の松並木です。
体長4~6cmの淡水魚で、岐阜・三重・滋賀県にのみ生息します。水温20℃を超えると生息できないため、清浄な冷水地が必要です。
やせた土地でもよく育ちますが、暖地性のため、岐阜県内の自生地は垂井町周辺が北限といわれています。秋葉神社境内のものは樹高13.5m、目通り1.4mです...
高さ約25m、目通り約8.2m、樹齢約800年の巨木です。県史跡垂井の泉のほとりにそびえたつ姿は壮観です。これほどの老木は県下でも稀です。
北海道以外の全国に生息していますが、数が減少しています。町内には10箇所程の生息地があり、6月中旬から7月にかけて泡状の卵を産卵します。
樹高30m、樹齢800年といわれる巨木です。ヤマトタケルがイブキ山の荒神退治の際、杖として使ったスギの枝を地面に突き刺したものだと伝わっています。
絶滅危惧種に指定されており、現在は垂井町と徳島県祖谷地方で確認できるのみです。7月頃、紫色の小さな花が鈴を連ねるように咲きます。
町指定史跡長屋氏屋敷跡にあるツバキ。樹高約15メートル、樹齢500~600年。
樹高30m、目通り6.6mの大スギです。関ケ原合戦のとき、社殿は兵火にかかりましたが、ご神体はこのスギの幹に安置したため安泰だったと伝えられています。
菩提樹の下でお釈迦様が悟りを開いたとされ、果実は数珠玉としても用いられるため、寺院に多く植栽されています。現在の菩提樹は3代目のものです。
栗原山の中腹にある樹高11m、樹齢約400年の巨木です。根元で2幹に分かれますが、再び癒着して連理の状態になります。縁結びの木と伝えられています。