垂井町文化財マップは、垂井町内に所在する国・県・町指定文化財、国登録文化財を紹介するものです。 左の検索ナビゲーションより、「種別」「キーワード」にて検索いただけます。 また、タブ切替により「マップ一覧」「リスト一覧」を切り替えてご覧いただくことができます。 当一覧を利用し、垂井町の文化財に多くの方が触れていただけたらと思います。
直径40mの円墳で、幅7~8mの周濠の一部が残っています。円墳としては大型で、古墳時代後期の首長墓とみられます。須恵器の三足壺が出土しています。武内宿...
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惟益は南宮大社の代官大夫職の不破家に生まれた、江戸時代初期の神道学者です。いわゆる「不破神道」の学説を大成し、「南宮神記」の著書も残しています。
一里塚は旅程の目安や旅人の休憩のため主要街道の1里(約4㎞)ごとに造られました。これは中山道沿いに建つ一里塚で、南側の1基が現存しています。
標高401mの山頂に所在、東西約150m、南北約300mを測り、その規模は西美濃最大級です。竹中半兵衛の時代までは、居館を麓の西福村に置き、菩提山城を...
直径60mの帆立貝式円墳です。5世紀前半に築造されたとおもわれます。鉄鏃や銅鏃、直刀、香炉状のものが出土したと伝えられています。
奈良時代、美濃国の官設抄紙場があり、美濃紙発祥の地とされています。平安時代には紙漉きの技術者宇保良信がこの紙屋に勤めていた記録が残っています。
豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛の子・重門が構えた陣屋です。屋敷の大半は消失していますが、櫓門や門扉、濠、石垣は幾度かの修復を経て現存しています。
岡田将監善政は江戸時代初期の美濃国の大官で、南宮大社の寛永の再建時の造営奉行を務めました。綾戸村と隣村との境界争いの解決にも尽力しました。
文明8年(1476)3月6日から3日間、連歌の会が催されたため、千句の里と呼ばれます。応仁の乱の戦火を避け美濃入りしていた専順ら12人で催されました。
栗原山の中腹及び山麓に存在したと伝えられる寺院群です。現在は山中の石仏・墓石が山腹斜面に集められています。
清澄な水が湧きでており、古くから人々に親しまれてきた泉です。11世紀に美濃国司・藤原隆経が泉を詠んだ和歌が伝わっています。
全長85mの前方後円墳で、濃尾平野を一望できる山頂部に立地しています。明治初年頃に出土した15点の石製品は現在東京国立博物館に所蔵されています。
垂井宿問屋・奥山文左衛門が宝永6年(1709)に建てた、中山道と美濃路の追分道標です。「是より右東海道大垣みち 左木曽街道たにぐみみち」と書かれていま...
本龍寺住職・規外と交友のあった芭蕉が、元禄4年(1691)に同寺を訪れ「作り木の庭いさめる時雨かな」と詠んだことから建立された塚です。
美濃国分寺跡の南西約1kmにあり、国分寺と同じ軒瓦が出土しています。平成16年から発掘調査が行われ、尼寺建物の基壇の一部が見つかりました。
奈良時代、美濃国を統括していた役所の遺跡です。平成3年度からの発掘調査で、政庁など中心施設の配置や建て替えの変遷過程が明らかになっています。
垂井宿本陣に生まれた檪原踅斎が創設した私塾です。踅斎は京都の久米訂斎のもとで儒学を修学した後泗水庵で子弟の教育に励みました。
昭和42・47年に発掘調査が行われ、瓦積み基壇をもつ塔跡が確認されました。不破郡大領の宮勝木実の氏寺や天平12年(740)に聖武天皇が訪れた「宮処寺」...
周囲約200m、高さ約40mの瓢形の山で、別名葬送山とも呼ばれます。『古事紀』などにみえる天稚彦伝説の喪山ともいわれ、円墳か前方後円墳ではないかと推定...
長屋氏は鎌倉中期に相模から垂井に移り住んだ豪族で、その屋敷跡は天明8年(1788)には13㏊ありました。後光厳天皇が垂井行在時、この屋敷を訪れています...
平成18年(2006)に南宮大社御旅所付近が美濃国府跡として国史跡に指定されたことにより、それ以前に町指定となっていた美濃国府跡は、これまで国府所在地...
鎌倉公方足利持氏の遺児・春王・安王は京都へ護送中、垂井の金蓮寺で処刑されました。墓には3基の宝筺印塔があり、1基は乳母のものとされています。
永貞は垂井町表佐に生まれた江戸時代末期の刀匠です。初め大垣赤坂で修行し、その後松江・京都・江戸青山で鍛刀、独自の鍛刀法を編み出しました。
南宮山頂付近に如法経と刻まれた石柱があり、一帯に石が敷き詰められています。付近の地下から出土した経甕が、南宮大社に納められています。
美濃国府跡の北西約2,2mに位置する窯跡で、国府や国分寺に供給する瓦を焼いたとされています。昭和22年の道路拡幅工事の際、大量の瓦が出土しました。
南宮山麓に位置し、6基の古墳で構成される栗原古墳群の内の2基です。1号墳は円墳で別称黄金墳と呼ばれ、2号墳は約44mの前方後円墳です。
県内最古級の白鳳寺院です。天平12年(740)に不破頓宮や曳常泉とともに聖武天皇が訪れた寺とされています。付近から大量の瓦が出土しています。
勝神社本殿北に所在する全長30mの前方後円墳です。後円の一部が残っていますが、大半は滅失しています。武内宿祢の墓として信仰を集めています。